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子曰く、鳥獸は與に群を同じくすべからず。
1月 10th, 2010 by admin

子曰く、鳥獸は與に群を同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と與にするに非ずして誰と與にかせん。
 

 

 
 
世間の中、世間の人と共に生きていくにはコミュニケーションという能力が不可欠である。
 
そもそものコミュニケーションの目的は「考えを共有する」という事であり、その手段として言葉を使った会話であったり、身振り・手振り、文字、絵、通信などを使って、その目的を果たそうとする事にある。
 
 
 
その為にはコミュニケーションをお互いに図るという意思の疎通が必要であり、そこにはコミュニケーションを図るという為の時間と空間を共有する必要がある。一方だけが積極的にコミュニケーション(意思の伝達)をはかっても一方がうわのそらであっては、その目的は達する事が出来ないのである。
 
最近ではITを駆使したコミュニケーション伝達が多くなってきたが、それは決してコミュニケーション能力を高めるためのものではなく、コミュニケーションをはかる機会を単に増やしてくれているだけに過ぎない。
 

ではコミュニケーションが巧いとは、相手にわかる言葉を使うことがまずあげられる。ソクラテスの言葉に・・・大工には大工の言葉を・・・というものがあるが、相手が理解できる言葉で伝える事が大事であり、話す側は自分はわかっているつもりでも、相手にはさっぱり伝わっていない事が多い。伝え方が悪いのに「相手がチットモ理解してくれない」と嘆いてみても、悪いのは自分なのである。
相手が知らない初めてのことを伝える為には相手を12歳の人間だと思って話してあげる事が大事だと良く聞くが、まったくその通りだと思う。
 
それから次に聞く側のコミュニケーション能力であるが、話し手が話しやすいという事は聞き手は、話しての話を最後まで邪魔せずに聞いてあげることがまずあげられる。それから話し手の話に共有しているという事を見せてあげる事が大事である。理解を示す為には「うなずく」「相槌を打つ」など積極的に反応してあげる事だ。人は話をする上で相手から好意的な反応が来た時だけ相手と巧くコミュニケーションできたと考えるものなのである、もし否定的反応(うなずかない・相槌を打たない)が返ってきたときにはコミュニケーションが成立しなかったと思ってしまう。
 
・・・うなづきや相槌は、話の内容が理解できる出来ないは関係なく聞く姿勢として最低のマナーである。
 
 
 
それから、相手の気持ちや相手の話をして楽しみたいという気持ちを、推し量ったり見極める能力のない人や、相手を思いやる心、相手に気を配ることが出来ない人はコミュニケーションが成立しないことが多い、やはりコミュニケーションは話す側も聞く側も相手の気持ちになってみる事が大事である。
 
 
夏目漱石の『草枕』の冒頭でも・・・
 
人と人との関係なんて、もうイヤだ・・・。「とかくに人の世は住みにくい」といったところで、どこへ行けばいいのか。どこへ行っても「人の世」だ。結局、向こう三軒両隣のなかでやっていくしかあるい・・・
とある。
 
 
 
昔の世は、人と関わらなければ何も出来なかったし食べて行く事も出来なかったから、どんなに人付き合いが嫌でも何がしかの接点がなければならなかった。しかし今の世は人と関わらなくても生活できるし食べていけるのである。よほどの場合でない限り親がいれば食うに困る事はないし、すねをかじってお金さえあれば、ネットで手に入らないものはない時代である。ニートや引きこもりであっても本人はチットモ困らないのである。
 
 
人付き合いが嫌だと、人と関わらずに過ごしていれば、宇宙空間の無重力状態にいたら、毎日筋肉が数パーセント落ちていくように、コミュニケーション能力も退化していくのではないかと心配する。
その結果として、心の理論で言われるように、「今日は暑いねぇ・・・」といわれても「そうですね。」で終わってしまうようになっていくのではないか。今日は暑いねぇ・・・」の言葉に隠された気持ちを推し量り、冷房を入れてくれなのか、温度を下げてくれなのか、冷たいものが飲みたいのか、を考えられなくなってしまうのではないかと・・・
 
 
 
 
コミュニケーション能力の欠如は、マナーやエチケットの低下を招き、ひいては良心の欠如を生んでしまうのではないだろうか・・・
 
 
 
 
 

子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。
1月 8th, 2010 by admin

子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好むものはこれを樂しむ者に如かず。

「世界一旨い日本酒 -熟成と燗でやる本物の酒-」という本がある。著者は「古川修」という工学博士というのが面白い。常温自家熟成・料理と日本酒との相性・酒作りの仕様などを探求して、本を出したりしているようで。
この本の中では、業界では常識とされていた「生酒は冷蔵保管」という常識を真っ向から否定している。
それは、しっかりとした造りの日本酒(純米無濾過生原酒)は常温で保管すると劣化するどころか味乗りがして極上の旨さになると言うようなことだ。
 
 
 
私も、たまに熟成五年や八年の日本酒を飲んでいるが、その際はりきちんと冷蔵庫で保管している。
 
しかし一概に日本酒は新酒が一番旨く、封を切ったら出来るだけ早く飲まないと味が落ちるという意見には諸手をあげて賛成はできないとおもう。
・・・以前の私は日本酒を熟成させて飲むという観念はあまりなかったような気がするが
 
 
 
しかし、ワインも大好きなのだがワインには出来立てが旨いワインもあるし、寝かせたら寝かせただけおいしくなるワインもある、また同じ畑で取れたぶどうで作ったワインでも製造年によって旨さが違うというのはワインの常識みたいに知っていたし、焼酎にも古酒があり出来立てよりも味がまろやかで飲みやすくなったり、泡盛に至っては古酒の方がはるかに飲みやすく値段も高いと言うことで、日本酒にもそういうことがあってもそんなに不思議とは思わないと言うのが正直なところだ。
 
 
 
先の本にも書いてあるが、一度、新酒と熟成酒の同じお酒を冷蔵、常温、ぬる燗、熱燗、燗さましと飲み比べてみたいものだ。しかし一人でこれだけの種類を一度に飲もうと思ったら一人で一升飲み干さないといけないようなので、ぜひ試したい人を集めてから実行したい。
 
また、本の中に面白い記述があり、それは日本酒も飲む器の形状、大きさ、材質によって味がずいぶん違って感じられると言うことが理論的に書いてある。それは口の中(舌)の味覚センサーの位置にあると言う、人間が味覚を感じるのは口の中にある「味蕾」という味覚細胞でこの「味蕾」は特に舌の中央に集中しており、甘さ、辛さ、苦さ、酸っぱさを感じる場所が違うために、その一部分で酒を受けると感じる味が中途半端というのだ。したがって器の形状は飲み口が出来るだけ広めで口の中全体に酒の味がいきわたる形状が良いと記述されている。そういわれると確かにそうだなぁと納得してしまう。
 
酒盃の厚みに関してもあまり厚い飲み口のものは唇で触れたときの存在感が酒の味を邪魔するとあるし、材質も陶器磁器、備前、京焼き、伊万里、瀬戸、萩、信楽、久谷、有田など焼物の種類によって味がまた違うとある。これは私もそう思う。(単なる感覚でしかないが・・・)
 
やはり酒器はそのときの酒の味、料理、場所、気持ちで使い分けることをお勧めする。これは世界共通だと思うが同じ料理、同じ酒でも器によって、まず目で見て目で食べて飲んでいるようなものだから、見た目は非常に重要だと思う。
 
そうかんがえると同じ晩酌でも、自分のお気に入りの徳利や片口でお気に入りのぐいのみで飲む酒は、それがせまい食卓の端の方であっても、雑然としたコタツの上であっても、その空間だけは自分のお気に入りで満たされた空間であるわけであるから、コンビニで買ってきた日本酒の小瓶でも、パックの漬物でもお気に入りの器に盛るだけで気分はまさに料亭の先付けである。
 
お気に入りの器で酒を軽く1合2合飲ったあとは、志野焼のご飯茶碗で食べるじゃこ飯で疲れが取れると言うような物である。
 
 
 

子曰く、士、道に志して、
1月 7th, 2010 by admin

子曰く、士、道に志して、惡衣惡食を恥ずる者は、未だ與に議るに足らざるなり。

今年は昨年から手がけてきた新商品「WhySo-?カード」を本格的に販売していく事もあり、「宮路嶽神社」に参拝しようと思って午後から出かけてみた。宮路嶽神社」は開運、商売繁盛の神様で、ここ数年来は宮地嶽に願を掛けるとヒットするとの事で、多くの芸能人も参拝しているという。

 

1000円高速を下りて同乗者のナビ子ちゃんの指示にしたがって到着したが、さすがに参拝者が多い。こんな不景気だから商売繁盛の神様は「人気だなぁ・・・仕方がない」と思ってゆっくり順番を待つ事にする。

 

待つ事小一時間、ようやく駐車場に着いたが、場所が無い。こまったぞ・・・・・と、うろうろしていたら境内の外回りに大きな楠があり、一台分の場所がある。ようやく止める事が出来た。

 

最初に目につくのはとにかく「でかい」日本一の注連縄である。近くで見るとますますでかい。ホエーーーッ。。。

 

またまた並びに並んで、千円札を、お賽銭箱へ投入。今日はお願いの為に来たのであるから奮発しなければ・・・

 

せっかくきたので神社の横手に回ると、奥の宮八社と民家村自然広苑が目について、さてどちらに行こうかと思案したが今日は民家村のほうへ行ってみることにする。

 道を下ること2~3分。。。菖蒲の池端を歩いていくと昔ながらの巨大な藁葺屋根が見えてくる。こんな雰囲気やたたずまいは特に好みである。中に入ってみると、当たり前のように床に囲炉裏がきってあり、巨大な梁から自在鉤が下がっている風景。レトロだな~。

 

入ってすぐの広い土間にはかまどもあり。縁側には木臼や粉引きの石臼もある。きっと昔の生活は、日が昇るのと同時に朝早く起きて戸外の井戸で冷たい地下水で顔を洗い。畑や田んぼに野良仕事に出かける。夕刻早めに帰り、収穫した米、麦、粟、稗、蕎麦を石臼で挽き、練ったり炊いたりし、床の囲炉裏で提灯の明かりを頼りに焼いたり煮たりしたのであろう。どの家庭にも当たり前のように石臼や木臼があって当たり前に使って食事を作る。考えてみれば、人間として一番健康的なのかもしれないなぁ~と思ってしまう。

 

自給自足が基本で、自分のところでは作ったり採れない、着物や魚を手にいれるために、自分で作ったものを売ったり交換して毎日の生活を送る時代。しかし電気が発明され便利な生活用具が作られ、それを買うためにより多くの収穫を望み、便利な生活が当たり前となり、余裕があればより旨いものを食べたいと思う。

 

そうしてより多くの収入を望んで行く・・・・・・。

 

自分の体や環境を壊すためにお金を使い、それらを健康に戻すためにまたお金を使っているような・・・・・

 

現在、昔ながらの手打ち蕎麦が贅沢な食材になってしまった。・・・反省である。

 

 

 

子曰く、故きを温ねて新しきを知る、
1月 6th, 2010 by admin

子曰く、故きを温ねて新しきを知る、以て師と爲るべし。
 
 
 
  
 
昨年になるが久しぶりに古い友人に会いにくことになり、上京した。
 
先方の事務所が近いという事で年甲斐もなく原宿駅で待ち合わせをしていたのだが、少し早く着すぎてしまったので、神宮橋の派手な格好のお嬢ちゃん達のすぐ脇をすり抜けて、荘厳な大鳥居が入り口で結界を創っているような雰囲気の中、明治神宮の中を一通り探索してみた。
明治神宮という古き良きものと神宮橋の若者が妙にマッチしていて面白い。
 
 
その後、原宿駅から表参道を通り、「omotesando hills」を通り過ぎていく。この表参道ヒルズも建築家の安藤忠雄氏が「旧同潤会青山アパート」の一部を残して新旧混在の妙を作り出しているように思う。
 
 
 
南青山まで歩き、表参道交差点近くにある「大坊珈琲店」に寄ってみることにした。
 
この店も、いまや希少価値の部類に入る昔ながらの喫茶店であろう。味にうるさい珈琲通や文人が通っていたようなお店である。今日このお店にあえて寄ったのは、自家焙煎の深炒り珈琲であることも一つだが、もう一つは陶芸家「升たか」さんのカップを使用していることが大きな理由である。升たかさんの器は数点所有しているが、素晴しい絵付けの器である。
 
 
お店の人に聞くと升さんの器で珈琲を飲むにはブレンドの4番かモカを注文してくださいと言うことなので、私はブレンドの4番をチョイスした。小さなぐい飲みのようなカップには細密な彩色が施されいかにも升さんの器である。
 
毎朝ゆっくりゆっくり深炒りした豆を、ネルドリップでゆっくりゆっくり抽出してくれる。内装は焙煎のいぶした煙がいつも充満するのだと思うが、壁、天井、家具に至るまで珈琲色に古色がついてなんともいえないいい風合いである。私の事務所の近くにこんな店があれば、いっつも煙草をふかしながら、ひと息入れているとおもう。
 
 
 
旨い珈琲を飲んだので、せっかく東京まで来ているので よし旨いお茶を飲もうということで、向かった先は「京都林屋」の青山店である。
このお店も古い伝統として息づく「茶」という古いものを、青山と言う場所で新しいお店としてのスタイルでお茶を楽しめるお店である。カウンターの中央に茶釜を設置し、その茶釜から湯をくみ出してくれるのだ。店内は若い女性ばかりでちょっと気恥ずかしい思いもするが、何事も経験とおもい蕎麦茶を頼んでみる。風合いのある小さな折敷に白磁の湯飲みと茶瓶そしてポットが出された。3分くらい蒸らしておのみくださいということで、香ばしい蕎麦茶の香りがすがすがしい気持ちにしてくれる。
 
毎回、東京と言う街は不思議なところだとつくづく思うが、超新しいものと、超古いものが融合してまたさらに新しい物を生み出しているような・・・・・・
 
 
 

子曰く、君子は器ならず。
1月 5th, 2010 by admin

子曰く、君子は器ならず。
 
 
 【辛口】極麦KIWAMUGI 355ml×24本入り
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
何か一つに秀でた能力を収めたものは多彩な能力を発揮するといわれるが、深く狭くが良いのか、広く浅くが良いのか悩みどころではある。
 
ただ「深く狭く」のほうがきっと難しいのではないか。
そこで言えることは、まずは一つに集中しきわめてみる事ではないかと思う。
 
自分は何をきわめただろうか・・・・うーーーん考えてしまう。
 
ここ最近、ゴルフ・スピードスケート・モーグル・箱根駅伝 などなど
きわめそうな人がたくさん現れているし、イチローなどは最たるものであろう。
 
芸能界、スポーツ界、伝統工芸などには、その道の一人者として名の挙がるものが多いが、政治経済の世界はいかがなものか・・・・
 
ぜひ日本の為に「首相職」をきわめて欲しいものだ。
 
・・・
ちなみに 「きわめる」には「究める」と「窮める」と「極める」という三つの「きわめる」があるのだが、ここで言う「きわめる」は「極める」である。
 
頂点を極める・・・・その道の一人者、これだけは誰にも負けない
 
 
 
 
今日が仕事始めの職場では、きっと新たな気持ちで、新しい事に取り組むもの、持ち越しの仕事にいそしむもの、いつもとなんら変わらず継続する仕事をこなすもの・・・種々雑多な営みが開始されるであろう。
 
自分の仕事を極めるというのが、誰もが何かを極める為には一番近道なのかもしれない。
 
 
では、自分の仕事を極めるとは・・・・
 
今の職場で一番になる。
地域で一番になる。
全国で一番になる。
 
なんにしても「極める」とは一番にならないといけない。
  
 
 
まずは、小さな目標を立てて極めてみよう!
 
 

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